祖母のお通夜の夜、甥っ子が見たいくつかの光の玉
私の祖母が亡くなった翌日、お通夜の日の夜の出来事です。
「あっ、あれなあに?」
5才の甥っ子が突然、部屋の天井を指差してこんな声を上げたのだそうです。
「な~に、どこどこ?」
「ほら、あれ~。あの紫の丸と水色の棒!」
大人たちの目には見えませんでしたが、甥っ子の目には
いくつかの紫色の光の玉と、水色の細長い光(?)が見えていたのだそうです。
その話を聞いたとき、私は「紫色の玉は “祖母の魂の光” なんじゃないかな」と思いました。
亡くなった祖母の魂が、身内を訪ねて挨拶回りをしていたんじゃないかな、と……。
甥っ子によると「紫の玉はいくつかあった」ということですから、
もしかしたら、祖母をお迎えに来たご先祖様たちと一緒だったのかもしれませんね。
(ちなみに水色の光の方は何だかよく分かりません・笑)
私が見たヴィジョン――見慣れぬ眼鏡をかけた祖母の姿
その少し後、私の家ではソファに置かれていたバッグが突然クルクルッと一回転し、床に落ちました。
「えっ!?――どうして??」
そのバッグは座面の奥に置かれ、落ちることなど物理的に到底考えられない状態にあったものでした。
そのときはまだ(先に書いた)甥っ子が見たという光の話を聞いていなかったのですが、
「もしかしたら、おばあちゃんがバッグを落として合図を送ってくれたのかもしれないな」
という風に思いました。
そしてその夜、眠りに就こうとしたとき、私の脳裏に突然
祖母のヴィジョンが “パッ、キラキラッ” と、まるで音を立てるかのように浮かびました。
着物姿で眼鏡をかけて微笑む祖母の横には、先に亡くなった母がニコニコと寄り添っています。
「あれ~……おばあちゃん、そんな眼鏡かけてたっけ?」
その眼鏡が妙に気になった私は、翌朝、祖母と同居していた叔母に確認してみました。
すると、それは祖母が確かに持っていて、ほとんど使用することがなかった眼鏡だと判明したのです。
こうして考えてみると、やっぱり亡くなった人の魂は、身体から抜け出て自由になったあと
身内やお世話になった人々を訪ね、挨拶をして回っているのではないかと思えてなりません。
ミディアムシップでは、エビデンス(その霊が本人であるかという証拠)が重要視されていますが、
それは “胡散臭さを払しょくし、霊や霊界の存在を実証するため” に決め手となる情報だからです。
この例でいえば、見慣れない眼鏡をかけた姿(私が知るはずもなかった情報)で現れ、
それが事実であったことで、現れたのが「本人である」と亡くなった祖母自ら教えてくれていた、
という部分がエビデンスとなります。
もし祖母がいつもの眼鏡をかけて現れていたら、夢だったのかな?で片付けていたかもしれません。
ですが、わざわざ違うものをかけて見せてくれたことで、妙に印象に残る結果となったのです。
そのおかげで、一連の不思議現象が「祖母のお別れの挨拶」だとの確信を得ることもできました。
また、母も霊界で幸せそうにしていること、祖母と再会できて嬉しそうな表情だったことも
心配していた私の肩の荷をほどいてくれる要因となりました。
「霊界の配慮ってホントに完璧だな~」と、毎度のことながら感心させられてしまいます(笑)
母のお通夜の夜にもあった不思議な出来事
また、私の母は祖母よりも数年早く霊界に帰っているのですが、
その母が亡くなったときにも、色々と不思議なことがありました。
亡くなった当日とお通夜の夜、母の枕飾りの祭壇の上で
ぐるぐる渦巻きの蚊取り線香のようなお線香を焚いていたのですが、不思議なことに
お通夜の日に限って、何度火を点けてもわずか1㎝ほど燃えたら必ず火が消えてしまうのです。
お線香が悪いのだろうか?と新しい別のものに取り替えてみても、やっぱり消えてしまいます。
なので私たち姉妹は、「これは母の霊が意図的に消しているのだな」と思うことにしました。
もうひとつ、祭壇には湯呑茶碗に入ったお茶が供えられていたのですが、
しばらくすると、このお茶が減っていることに気が付いたのです。
なみなみと入っていたはずなのに、気付くと半分近くまで減っている。
何かの見間違いか、はたまた部屋の乾燥で蒸発してしまったのか……?
とりあえずもういちど継ぎ足して様子を見ると、また1㎝近く減っています。
これはもう、母が飲んでいるに違いない!と想像したら、涙と笑いがこらえきれませんでした。
――ちなみに、義弟は葬儀社に勤務していて、こうした現象は見慣れているのだそうです。
「こういうことは良くあるよ」
と言っていましたが、その言葉も “母の魂はまだここにある” という思いを後押ししてくれました。
この世の時間はうたかた。だからこそ懸命に生きたい、たった一度の人生
私自身、霊界にいるスピリットたちとのパイプが太くなっていくにつれ、
「今、ここにいる自分は、この肉体に “魂が間借りした姿” なんだなあ……」
という思いもどんどん強まってきています。
たとえあちらの世界に帰っても、魂自体は決して消えることはないのだろうとも思っています。
母が生きた時間、そして祖母が生きた時間がそれぞれ、今こうして私が生きる時間と重なっている。
魂の旅から見ればほんの一瞬のその時間を、私は大切にできていたんだろうか、などと時々考えます。
長いようでも人生なんてあっという間。
だからこそ、この一度きりの生を精一杯に生き切りたいと思えて仕方がありません。
今回生まれて来たのは、何を学び、何を成し遂げるためなのか。
その答え探しに躍起になるよりも、ただ目の前にあることを一つひとつ懸命にこなしていくのみです。
そうしているうちに、きっと霊界のサポートにより自然と答えも見えてくるでしょう。
もしも可能ならば、自分が描いてきた人生計画よりも、それ以上の成果を残せることを願って……
魂の旅の思い出とは、「どれだけ心を震わせることができたか」という一点であるのかもしれません。
ならば私は、一生懸命に愛を与え合い、魂の成長を目指して頑張っていきたいと思う今日この頃です。
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